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『心の蹴球(サッカー)日めくり』をのぞき見 NEW! |
「自分たちのサッカーをします」そんなコメントをよく耳にします。 自分たちがずっと練習してきたこと、 自分たちの能力をいかした得点する可能性が一番大きい攻撃、 また、自分たちの能力をいかした一番失点しない守備 そして・・・そのチームの伝統など。 しかし、「チーム」というのは、ピッチの上だけで表現されるものではありません。ピッチの外もチームな訳です。当然、ピッチの外でも得点できる可能性が高い方法があり、失点しない方法があるのです。 たとえピッチに立てなくても、ピッチの外でも俺たちのサッカーをしているのです。 | ||
たとえば卓球などの個人競技の団体戦ですと、勝ったのは君!負けたのは君!と勝因にしても敗因にしても残酷なくらい明白です。 しかし、チームプレーの種目だと、そのあたりが結構微妙で、これだと決めきれないことが多いです。 そんな中で、サッカーのPKは、全くの個人競技と同じ。決めた、外したがはっきりします。選手によっては、PKは「いや!」と公言している人もいますが、これも自分の大好きなサッカーの重要なプレー。この残酷さも大好きなサッカーなのです。 さあ、勇気を持って覚悟しなさい。勇気を持って立ち向かう姿・・・サッカーは、子どもを大人に変えてくれます。 | ||
単純に、アシストということばの定義は、シュートを決めた選手の出された直前のパスのことを言います。 でも、サッカー自体だけでなく、チームを取り巻く状況もこれだけ組織的になった今日、直前に出したバスだけがアシストといえるのでしょうか。 たとえば、お父さんに送り迎えしてもらいました。これはアシストではないのか。単なる当番か。 たとえば、お母さんがお弁当を作ってくれました。これはアシストではないのか。単なる義務か。 ゴールとは違いアシストの定義はあいまいです。アシストの記録が公式記録として残ることは少ないです。 公式記録として残らないものの中にこそ、見落としてはならない本質があります。 (記録として残らないものを、愛情ともいいます。) | ||
私が小学校の頃、いつもグランドの周囲を黙々と走るひとりの先輩がいました。実は、その先輩は幼い頃、農機具で怪我をされ、片方の指先を落とされていました。ただひたすらにボールを蹴る姿を、ジャングルジムの上から見ていたのを覚えています。 怪我した自分に挑まれていたのでしょうか。 私はいつもその先輩の気持ちの強さをひしひしと感じていました。 強いから、努力を重ねられるのか。 努力を重ねるから強いのか。 ただ、最後に勝つのは、努力です。 (しかし、本当に強いやつは、それを努力だとは思っていませんがね) | ||
あきらめた瞬間、試合は終わります。 あきらめるということは、そこで「断ち切れる」ということ。 次には、決して続いていかないということです。 あきらめなかったからこそ、大逆転が生まれた! このことは数々の歴史が証明しています。 大きなことを成し遂げるには どこかに逆境があり、とても苦しいときがあります。 そこで、へこたれない。 そんなときほど、勇気を奮い立たせる。 みんなは、あきらめていません。 何くそ! 負けてたまるか! | ||